「真面目な顔して映画話なんかしてないで、僕の絶望話を聞きませんか」とスタジオで声をかけてきたのは、一緒に仕事をする機会が多いプランナーの矢口くんです。「日々の生活の中で、つらいことって数々あると思うんですけど、僕がいちばんメゲたのは傘がなかった時のことですね」
「突然の重い話かとおもったら、それほどのことでもなさそうだね。傘がないという程度じゃ、絶望的状況というほどの感じはあまりしないけどね」
「いやいや、それが問題はね、場所なんです。僕の場合は、自宅に傘がなかったんですよ。家に傘がないとは割と想像しにくいじゃないですか。どんなにぼろくても一本はあるとタカをくくっているでしょう。そういう意味では家傘をなめていますよね。その時もまさにそうおもってました。会議の時間が迫っていて、もうそろそろ家を出ようって時に、突然土砂降りの雨がはじまったわけです。その雨が尋常じゃないくらい激しく降っているんですね。もう滝のようなかんじで、ゲリラ豪雨とはこういうことを言うんだなとヘンに納得しちゃうくらいでしたもん。だけど傘がないんです。家中探してもやっぱり見つからない。会議の時間は迫っている。タクシーを呼んでいては間に合わない。電車を使うのが確実です。でも外は滝のような雨。そして依然として
問題は、家に傘がない。
井上陽水の歌が切実に響いてきました。こういうのを日常に潜む絶望的状況と言わずしてなんとする、と思いましたけど。ね、これ意外と絶望的でしょ!」
「・・・うーん、話としてはあまりオモシロくはないけど、リアルな想像をすると、確かにどうしようもない気がしてくるね」
「でしょ。で、どうしたかというと、駅まで走ったんです。ゲリラの中を。家を出て5秒でずぶ濡れになりました。駅まで5分程度なんですが、着いたときには異常に濡れたへんな人になっていました。
『あの人は、なんで朝からずぶ濡れなの?』
っていう女子高生の目が冷たかったです。しかも悔しいことに、電車を降りたときには雨はやんでいました。いまさっき体験した絶望的状況を説明するにも、話が弱まるというか、説得力に欠けるじゃないですか」
「そーかー。まあ、矢口くんの立場になって考えてみると、日常にはそこまでの絶望的状況はあまりない気がするね。お店を出たら雨、というのとは根本的に違うわけだね。しかも問題は豪雨のほうじゃなく自分にあるんだものね。なるほど、ぼくはそこまでの経験がなくてよかったとおもえてきたよ。」
「・・・あのう、ぼくの話を肯定してもらって、普通ならうれしいんでしょうけど、なんだか落ち込んできました」
「家傘は必需品だね」
「はい。そう思います」そういうと矢口くんは、さっきまでいたスペースへ戻っていきました。矢口くんの家にはもう傘があるのでしょうか? ぼくは、たぶん「ない」気がします。矢口くんはそういう人です。
