見える人と見えない人

今年の前半は、つらいお別れが重なりました。新盆を迎え、彼らの顔を思い浮かべる回数が増えたようにおもいます。「もう一度だけ話がしたかった」というおもいが、なぜか諦めきれずにいる自分に気がついて、少し驚いたりしています。そんなおもいにこだわっているのは、バーチャルの進化が、生と死の隔たりを縮められるように錯覚させているせいかもしれませんし、最近の流行映画によく見られるような、あの世から黄泉がえることも不可能ではないという考えが定着しはじめているからなのかもしれません。いずれにせよ、もう一度話がしたかった、というおもいは大きくなっています。死んではいけない。それはなぜか? その答えを明確に示せる人は少ないでしょう。なぜならば、人は死んでもいいからです。それでも死んではいけないというのは、一つは魂の成長という自己の問題と、もう一つは死なれては困る人たちがいるという他者との問題があるようにおもいます。後者については、人は、人を辛く悲しい現世に留まらせるために「家族」という制度をつくりましたね。これによって死なれては困る最少単位の人たちが生まれたわけです。そして、家族をどんどんひろげていくと国家になります。生には、法律や名誉や制度や税金やなんやかんやいろんなものがべたべたとくっついてくるんですね。だけど、そういった諸々を取り払うと「死」は、とても軽やかなもののようにおもえてきます。でもそれではいけないんですね。だって、死んではいけないという重く大きな十字架を背負わせなければ国家が崩れてしまうでしょう。だから石にかじりついてでも生き延びねばならないと頭から思い込まされている。死は逃げることだ。。。でも、だとしたら何から?たとえば、古今東西の地獄のイメージはものすごく多種多様存在していて、描写も詳細。火炎地獄や針地獄なんていうのはまだかわいらしくて、その残虐さに一日を暗澹たる気分で過ごすことになりそうなものは珍しくありません。反対に天国は皆一様。イメージもぼんやりしていて、地獄と比べると「だいたいこんなかんじ」という程度のものばかりですね。この違いはなぜか? おなじ死後にあって、なぜ説明にこうも差があるのか? それは「死なせないため」のハザードのようなものだったんじゃないか。生きている方がまだマシだぞ、と信じ込ませるための地獄キャンペーンと考えられなくはないでしょうか?僕が珍しくこんなことを考えているのは、お別れした一人は自殺だったからです。なぜ生きようとしなかったのか、と責めることはたやすいですね。決心する前に、もう一度話ができたら、彼はガス線をひねらなかったかもしれない。「もう一度だけ話がしたかった」。だけど、それは「死は悪」で「生は善」という単純な対比から導きだした安易な答えではないのか。なぜもっと早く死ななかったのかとは言いませんが、ここまで生を引っ張ったのはどうしてだったのか、と彼に聞いてみたくなりました。生と死という分け方をするとわかりにくくなるのですが、目に見える存在と目に見えない存在という関係は、これまで常識として教わってきたよりも、ずっと近い間柄なんじゃないかという気がしてなりません。それは映画やバーチャルの影響というのではなく、ここ最近になってそういった感覚が万人に芽生えはじめ、逆に映画や小説のなかに反映しているんじゃないかと考えてしまいます。まあ、お盆だからということで、こんな話題も大目に見てください。でも大切なのは、相手が生きていても死んでいても「その人を心でおもう」ことでしょうね。電話をしたりメールをするのは、おもっているからですね。線香をあげたり、手をあわせるのも、同じことでしょう。目に見えない存在になった彼らへのメールみたいなものですね。

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